2013年2月24日日曜日

13年ぶり

いろいろ忙しくてアレだったんですが,一週間ほど前の話を。

昨年再結成した Ben Folds Five の来日公演を見てきた。
東京公演は 2 ヶ所,まず,2/16(土) は昭和女子大の人見記念講堂
これは開始時間が 17:00 と早かったこともあり,知人宅に子供たちを預けて,ヨメと二人で。
次は週が明けた 2/18(月) に渋谷公会堂。こっちは一人で。
なんと両方とも見たのだ。

彼らのライヴを見るのは 1999 年の東京国際フォーラム以来だから 13 年と半年ぶりくらい。
(この間,ソロライヴは見たけれど… )
彼らは昨年 13 年ぶり 4 枚目のオリジナル・アルバム “Sound of the Life of the Mind” をリリースしていた。うかつにもこの事実をずいぶん後になってから,というか,ライヴのチケットの告知を見るまで知らなかった次第。去年は忙しかったからね。

で,ライヴ。これが最高だった。両公演とも 20 曲近くを演奏したんだが,ニューアルバムからは 6~7曲くらいで,それ以外はかつてのナンバーが主体。特に 2 枚目のアルバム “Whatever and Ever Amen” からの選曲が多かったように思う。これもうれしい。

渋谷での公演は特にエンタテインメント性が高かった。
トークも witty だったし,ちょっとコントっぽい掛け合いもあった。
それに何と言っても,即興の名曲 “Rock This Bi○ch” も聞けた(この曲の詳細はこちら)。
それからサプライズゲストも。

16日の公演では,“Song for the Dumped” は日本語版で演奏。
ニューアルバムに収録されているバラード “Thank You for Breaking My Heart” は日本語ではなく,オリジナルの英語で演奏。
18日のライヴでの本人の弁によると(信ぴょう性はともかくとして :-P),「日本語でやる自信がなかった」とのこと。で,「自分より日本語も英語も達者な友人に相談して,で,今日はやることにした。その友人はシンガーでもあり…」ということで紹介されて出てきたのがアンジェラ・アキ。Ben Folds とは彼のソロ作品の中で “Black Grasses” を一緒に歌っているけれど,この日はアンコールで,一緒に “Thank You for…” を歌ったという次第。
しかし,やっぱりうまく歌えなくて Ben Folds 自身は “F○ck off !”を連発してんのがなんかかわいかったな (^^;

16 日のアンコールでは,僕の大好きな “One Angry Dwarf and 200 Solemn Faces”を演奏してくれたけれど,18日はなかったのが少し残念ではあったけれど,それでも,13 年ぶりのライヴを心から満喫できた。

そもそも彼らは,日本で火が付いたので,本人たちも日本,特にブレイクの中心となった渋谷には強い思い入れがあるようだ。当時は,ギターレスのロックトリオということで注目されていたわけだけれど,よく考えると,ジャズでは,ピアノ,ベース,ドラムスというトリオはある種典型的。出す音がジャズではなく,オルタナティヴなロックサウンドだったというだけのことだ。それでも,時折ジャジィなフレーズも出てきたりするから,そういう意味でもライヴは本当に楽しい。

彼らもすでに 40 を超えているわけだが,当時と変わらぬ演奏は嬉しかったし,ベースの Robert Sledge も昔と同じようにジャンプしていた。楽しかったね。

日本でのブレイクがなければ,当時も今も彼らを見ることはできなかったかもしれない。その意味で,渋谷の HMV やタワーレコードが果たした役割は大きいし,日本のファンは自らの慧眼を誇りに思っていいと思う。

年が明けてからもずーっと忙しくて擦り切れそうだったけれど,少し心の栄養をもらった気になれました。


2013年2月13日水曜日

理由なき謝罪?

今,うちのガッコは学年末試験期間中である。

年度末は最後の成績をつける時期でもある。この時期になると,いつも思うことがある。

試験に遅刻したり,稀だけれども試験を無断欠席したり,あるいはレポートなど提出物の〆切を過ぎたりする学生がよく

すみません…

と謝る。

よくよく考えるとこれって不思議だよねぇ。謝られたって,そもそも我々教員は特に困ってもいないし,迷惑も被っていない

困るのはどっちかってと,学生本人だろう。僕らじゃない。謝られても,ねぇ??

まぁ,提出物が〆切に間に合わない学生なんかの場合は,催促をしたり,試験をサボって単位を落としそうな学生がいたら,進級が可能かどうかを担任に確認したり,そういう仕事は確かに増えるが,これは我々の通常任務の一部で,果たさなくてはならない義務だ。

試験の出来が悪くて,補習や追試をすることもある。私立なんかだと有料になるケースもあるが,ウチの場合はもちろん無償。その程度のサービスも任務のうちだし,学生指導の一環と考えている。

それに謝っている学生は,

私のために追加指導させてしまうことになり,
先生の負担を増やしてしまってすみません

ということで謝っているわけじゃ,たぶんないだろう。

そうなんだよ,不思議なんだ。

なぜ,謝る?

ま,完っ全に開き直って,再試験受けたり,レポートの催促してもらうのが学生の権利だとか主張される(そんな学生がいないことを願う…)よりはマシだが,やっぱり謝られる筋合いはない。

謝る前に,言うこととか,やることがあるだろう?

下げる頭は肝心な時のためにとっておいて,行動すべきことをすれ!(←北海道弁)

さて,今年は何人,頭を下げてくるかな?


2013年2月12日火曜日

急加速の呪縛

ブルーバックスから情報理論の入門書が出たというので,読んでみた。


著者の高岡さんのことはあまりよく存じ上げないが,一般向けの情報理論の解説本みたいなものってほとんどないので,この本の存在価値はそれなりに高いと思う。内容も,情報源符号化と通信路符号化を2本柱にして,一般読者向けにかなり咀嚼して書かれていると思う。

個人的には,ストーリーが練り切れていなくて,話があっちに飛んだりこっちに飛んだりするように感じるところが気にはなったけれども,たとえ話の類の中には,授業なんかで使えそうなものもいくつか見つかったので,まぁ,なるほどと思ったりもした。

だけどだよ。やっぱり,アレなんだよな。なんていうか,越えようにも越えられないハードルみたいなものってあるんだなぁ,という印象を抱いたことも事実。

本の導入の部分は決して悪くない。かなり噛み砕いて,幅広い読者が十分にフォローできる出だしだなぁと思って読んでた。ところが,あるところから,ギアがクッと上がるんだな。

たとえば,英文におけるアルファベットのエントロピーを例に挙げたマルコフ情報源のくだりなんかはシャノンの原著や Cover & Thomas に忠実な記述になっているけれども,それまでのマイルドな語り口調がちょっと硬くなってしまったような印象がある。この辺で,少し置いてけぼり感を覚える読者はいるはずだ。

それに符号木と語頭符号のところも気になった。符号木の葉にすべての情報源シンボルが割り当てられれば,語頭符号になるってのは,よーーく考えると理解できるけれども,意外とあっさり書いてあるもんで,数行の説明からきちんと理解するのは,読者にかなりの負担を強いると思う。

さらには,相互情報量の説明も,かなり丁寧になされている印象はあるが,同じロジックを繰り返すばかりで,そこに引っかかってしまった読者は蟻地獄から抜け切れないような危険性があるようにも思われる。

…と,こんな書き方をしてしまうと,すごく批判的に語っているように思うかもしれないけれど,これってある程度は仕方がないんだよなぁ,とも思う。僕も情報理論の教科書を書かせてもらったけれど,本全体を通して,難易度のレベルや語り口のトーンを一定に保とうと思っても,なかなか難しくて,ある章はすごく丁寧で易しいのに,ある章はすごくぶっ飛ばして思いっきりギアが上がってしまった部分もある。(ちなみに,高岡さんの本の中に「エントロピーや情報量という話から始めている教科書が圧倒的に多い」 というくだりがあるが,これは拙著にもモロに当てはまる。というか,僕の本の場合は,特に顕著だという話もある… (^^;)

ほかの情報理論の教科書なんかを読んでも同じような印象を持つことは少なくない。

これって,何なんだろうなぁ。やっぱり,学問的な特性上,どこかでクッと高速に上げないと,その先に行けないようなハードルがあるんだろうかねぇ。必ずしもそんなこともないと思うんだけどなぁ。

そーーーっとアクセルを踏んで,ギアを少しずつ上げていって,気が付いたらスピードが上がってた,みたいな書き方が理想なんだろうけど,言うは易し…ってことなのかなぁ。

…とまぁ,そんな感想を抱いたというわけ。ただ,この本は,その難しいところにチャレンジしていて,少なからず成功している部分もあるわけで,その意味で,著者の高岡さんには敬意を表したい。さっきも書いたけれど,授業の小ネタに使えそうな下りも多いし。

とりあえず,中学生(にはちょい難しいか?)や高校生,ちょっとコンピュータに興味がある高齢の方,なんかが読んでどんな感想を抱いたのか,ってのは知りたいなぁ,と思う。

いずれにせよ,若い世代に情報理論の面白さや意味するところを伝えるための一助として,存在意義は十分にあると思う。理論研究と浮世の間をつなぐのりしろとして,こういう試みは悪くないし,我々が自らの語り口や教え方を改めて考え直すための触媒にもなるよね。

教育的見地からすると,こういう問題意識を共有して議論することこそ,重要なんだろうな。

2013年2月8日金曜日

アートとしてのヒップホップ?

面白い映画を見た。

『ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人 (Herb & Dorothy)』


つつましい生活をしながら,ミニマムアートやコンセプチュアルアートといった現代アートの作品を買い集め,気が付いたら世界でも屈指のアートコレクターとなっていたという夫婦のドキュメンタリーである。2008年の作品。給料で買えるもの,しかも,電車やタクシーで持ち帰れて1LDKのアパートに入るものだけをコツコツ買い集めていたという二人のたたずまいが何ともチャーミングで温かい気分になる。

アートコレクターについて考えたことはあまりなかったが,この映画を見て改めて納得したことがある。コレクターが作品を買うとき,それなりにあるポリシーを持って買い集めるだろう。したがって,そのコレクションが公開されるときには,他人の作品ではあっても,コレクション全体を眺めた時には,そこにコレクターの主観がそこはかとなく表れているんじゃないだろうか。ということは,アートコレクションそのものも,他人の作品をコラージュしたある種のアート作品なんじゃないか,という気がする。

これって,ポップミュージックにおけるDJなんかの役割とちょっと似ているようにも思える。特にハーブとドロシーの場合は,コレクションに含まれる作品が4,782点(!),アーティストの数も 170人あまりに及ぶ。まさに,それぞれのアーティストのおいしいところを少しずつ集めた見本市,いや,サンプリングって言い方もできるんじゃないだろうか?そうか,これってある種のヒップホップカルチャーだったんじゃないだろうか??それは言いすぎかな?

実は映画自体もユニークな作りになっている。アーティストやキュレーターらのインタビュー映像や二人の様子,昔の映像などといった素材を,時間軸に沿わずにパッチワークのように貼り合せたような作り。それでいて,1本の作品としてのうねりを持っている。これもやっぱりサンプリングっぽい作りだ。

彼らがアート作品を買い始めたのが70年代あたり,しかも,ニューヨークで…って,やっぱりヒップホップの台頭と偶然にも符合する。ま,僕の妄想かもしれないけれど,これって面白い一致だ。

さて,この2008年の映画をなぜ今見たのかって話なんだけど。
実は,続編にあたる『ハーブ&ドロシー ふたりからの贈り物 (Herb & Dorothy 50×50)』がこの春,世界に先駆けて日本で公開される。
前作では,二人がワシントンにある国立美術館に全コレクションを寄贈するところまでが描かれている。このコレクション,国立美術館でも全部を保存するのは手に負えないということで,全米50州にある50の美術館に合計2,500作品を寄贈するというプロジェクトが2008年に発足。続編ではこのプロジェクトのようすが軸に描かれているという。

映画を監督したのは佐々木芽生さんという女性,実は,僕の高校の6年先輩にあたる。
この作品の製作と配給にあたっては,助成金や協賛だけではなく,クラウドファンディングという方法で資金調達が行われている。この方式はインターネットを利用して,少額の資金を多数の支援者から募り,映画やアートなどの文化事業を実現し,サポーターを確保するというものである。東北の震災復興なんかでも利用されたことがあるので,聞いたことがある人も多いと思う。

今回のクラウドファンディングの目標金額は1,000万円。
僕の母校の同窓会有志でも応援しようという声が上がり,このうち150万円を同窓生ベースでカバーしようという活動が行われてきた。

このクラウドファンディング,締め切りが連休明けの 2月12日
500円から支援が可能で,支援金額に応じたノベルティも受けられる。
もちろん,僕もささやかながら支援をさせていただきました。
興味のある人は,こちらのサイトをのぞいてみてください。

あと,関連するサイトも下にあげておくので,ポチってみてね。

 ・「ハーブ&ドロシー」公式サイト(日本語)
 ・Herbert and Dorothy Vogel - Wikipedia (英語)
   (Wiki では,彼らのコレクションに含まれるアーティスト一覧も見られます)


2013年2月1日金曜日

師曰く…

ここんとこ,世間では暴力やら体罰やらでひと騒ぎあるようですね。

今朝 twitter でも書いたんだが,一連の問題で議論するべきことは,暴力の是非ではない。
暴力や体罰がなくても,問題の指導者や教師はいずれ他の理由で糾弾されたのではないか?
あるいは指導や教育の成果を示すことなどできなかったのではないか?

なぜ,そう思うかというと,問題の根源は何かといえば,師弟間における信頼関係の喪失にあると思うからだ。もちろん,信頼関係が築かれていたからと言って暴力は許されないと思うが,一つの小さな過ちが大きな問題に発展するようなことは避けられただろう。

教師だって人である以上,完璧ではありえないし,過ちの一つや二つは起こす。それは初めからわかっているわけで,その過ちを認めて正し,軌道修正することは,指導する側とそれを受ける側との間に信頼関係がなければあり得ないだろう。

教師や指導者も,学校や教室,チームというコミュニティを形成する一要素に過ぎず,その中で,ある特定の役割を与えられているに過ぎないのだと思う。そうだとすれば,指導する側は,そのコミュニティのお山の大将になるのではなく,集団の中における自らの役割,立ち位置をしっかりと見極めることが求められるだろう。また,指導される側が指導者を敬うのと同時に,指導者側も指導される学生や弟子に敬意を払うべきだ。だからこそ,そのコミュニティがうまく回転し,そこに成果が表れるのだと思う。

僕は,時々,ある先生に言われた言葉を思い出す。

大胆かつ謙虚に。

これは非常に含蓄に富んだ言葉で,今でも僕の行動原理の一つになっている。研究者としても教員としても,ことを起こす上での一つのよりどころになっている。そして,これこそが,我々が教員たりうる上で,学生たちとの間に信頼関係を築く上で重要なカギともなっているように思えるのだ。

そもそも,我々教員が相手にするのは,リカちゃん人形やバービー,ミクロマン(懐かしいな…)やG.I.ジョーなどではない。血の通った,感情のある,頭でものを考えることができる人間たちなのだよ。一人ひとり考え方も能力も違う。我々に求められているのは,一人一人にカスタマイズされた指導を臨機応変に行うことだ。もちろん厳しい指導を行なうことは必要だろう。そこには譲れないものがある。しかし,感情にまかせて突っ走ったり,ただ一つの原理に突き動かされて画一的な指導を加えることは到底適切とは思えない。それより,時には,一歩ないし半歩下がって自らの背中から物事を見ることも必要だろう。そうすることで自分を含めたコミュニティ全体を客観的に眺めることができるのだと思う。まさに謙虚さのなせる業だと思うのだ。

自分が学生たちとの間に絶対的な信頼関係を築けているとは必ずしも思わないけれども,少しでもいい関係が作れるように努力はしているつもりだ。これは,本当のところは,言葉でいうほど生易しいことではない。我々のような職業は,そういう意味で,それなりの能力(というより適性かな?)や経験だけではなく,緻密さや繊細さが要求されているのだと思う。まぁ,いつもこんな小難しいことを考えて学生と向き合っているわけではないけれども,特に,昨今の報道を見るにつけ,改めて襟を正さずにはいられない。

大胆かつ謙虚に。 
 
そんなわけで,今日もこの言葉をかみしめて,少しだけ背筋を伸ばしてみた。