2011年10月27日木曜日

洗脳と教育

気になっている本があったので,図書館で借りて読んだ。確か,2ヶ月くらい前に予約したんだが,最近になってやっと順番が回ってきた(買えってか?)。

高橋誠「かけ算には順序があるのか」(岩波書店)

最近の小学校では,

6人に4個ずつミカンを配ります。ミカンは全部で何個いりますか?

という問題に対して,

6×4=24

と書くと,答の24個はマルだが,式はバツにされるって話。理系のお父さんが学校に文句言ったり,ネットに書きこんだりして,騒動になることが少なくないという。

…オレのことか…??

まだ,僕はこの事態には遭遇していないけれども,やっぱり小学校の算数の教え方には違和感を感じることは少なくない。割り算とかデシリットルとかさ。ただ,ボクが疑問を感じるのはいつも一貫していて,教えている内容ではなく,教え方なんだよね。このケースもどうやら,そういうことらしい。タイトルだけだと,この本の著者がどっち派なのかわからないので,読むまで心配してたんだけど,どうやら,ボクと同じ派だったようだ。ってか,常識的に見て,どう考えてもそっちが多数派だと思う。ちなみに「かけ算の順序問題」はネットでかなり議論が白熱した歴史があるようなので,以下では,恐らく既に議論し尽くされていることを承知で,僕なりの見方を書いてみよう。

小学校の先生方,というか,学習指導要領の言い分はこういうこと。

かけ算とは「1つ分の数」×「いくつ分」 の順序で式を書かなくてはならない。
つまり,被乗数が「1つ当たりの数」であり,乗数が「個数」でなくてはならない。
したがって,上の問題の場合,1人当たりのミカンが4個で人数が6人だから,
4×6=24
と書かなければならない。

だと…。ご存知の通り,かけ算には交換法則というのが成り立つわけで,答えはどっちでも同じわけだが,交換則は九九を一通りやった後に教える,というか九九表を見たりして,子供たちが自主的に発見することを期待するので,この時点で教えるべきではないってな話だ。

なんだよ,それ?

小学校で教えていることはまるっきり嘘ではない。ただ,教え方と違っていたからって,バツにすることないだろ?本の論調も九九の歴史なんかを手繰りながら,結論としては僕と同じ方向へ持って行ってくれているので,自分が少数派ではないことを確認できてホッとしたというわけ。

しかも,上の論法にはそもそも無理がある。何で「1つ当たりの数」をミカンの数にして,「個数」を人数にしなければならなかったのか?逆に,「1回当たり6人にミカンを配る」という試行を「4回」繰り返す,と考えれば,「1つ当たりの数」は6人になり,「個数」は回数,すなわち4回になるわけで,

6×4=24

でも問題ないことになる。本でもこのことは指摘されている。そもそも,かけ算と割り算は互いに双対な関係にあり,割り算は僕が前に書いたように,「1つ当たりの数」を求める操作に他ならない。例えば,4×6=24 という関係式は,分数で

24/6 = 4   あるいは   24/4 = 6

という式と同値であるわけだ。つまり,1人当たりのミカンの個数(左の式)を考えようが,1回当たりに配るミカンの個数(右の式)を考えようが,どれも偽りならざる真実である。このことは数学者の遠山啓も指摘していて,本の中でも,彼が

かけ算は「1あたり分」から「いくつ分」を求める計算である

と定義した上で,

6×4 でも 4×6でも,どっちでもいい

と論じていることが紹介されている。つまり,同じ問題,一つの真実をどっちの側面から見るかってだけの話なのよね。だからやっぱり,6×4がマチガイってのには,納得できない。子供が「いくつ分」を先に書いてしまったのならともかく,もし,「1当たり分」が6個だと考えて,すなわち,教科書や先生とは違う側面からこの問題を捉えて6×4という式を書いたのだとすれば,それは子供の想像力,理解力をたたえて,さらに伸ばしてあげるべきで,決して否定すべきではない。そんなことを教育者がやってはならない,と思う。

そもそも,後になれば,乗法の交換法則なるものがあることを子供たちは知ることになるわけで,なぜ,低学年ではそれを隠そうとするのか,その意図がわからない。リットルの書き方も同じこと。学校ではL,mLと書くように習うが,家の冷蔵庫に入っている牛乳パックには,ハッキリと「1000ml」と書いてある。じゃ,学校と世の中のどっちが正しくてどっちが間違っているのか?

子供たちに「今見せたくないもの」「今教えたくないもの」を執拗に隠そうとする態度は,東京都の青少年健全育成条例なんかとも発想が一緒だと思う。「臭いものにフタ」みたいな思想が見え隠れして,ものすごくイヤな感じだ。一歩外に出れば,学校では習わないもの,教えてもらえないものが世の中にはゴロゴロしている。それを隠してどうなる。子供たちがそれを目にすることを認めた上で,教えを説くのが本来の教育の姿であり,かたくなに一側面だけからの見方をゴリ押しするのは,カルト的あるいはセクト的な洗脳に近い。どうしても生理的に受け付けないんだよな。

ある意味,教育よりも洗脳の方が方法論としては楽なのかもしれない。その意味では,一つの物差しにしがみつき,考えることをやめてしまった教師が増えるのは,とても怖いと思う。しかし,上の本の最後には,

「順序固守派」だった小学校の先生が何人かその考えを改める発言をしている

とある。こういう人たちは考える能力のある先生たちなんだろう。このことは歓迎すべきだ。ただ,怖いのは,その背後に考えることをやめてしまったような人たちが何人くらいいるかってことなんだよな。人を教育するってことは,相手に頭を使わせるだけじゃない,むしろ,自分がそれ以上に頭を使うことなんだよ。違いますかね?

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